戦後80年に合わせ、「内閣総理大臣所感」を発表する石破首相(10日午後、首相官邸)石破茂首相の戦後80年所感全文は次の通り。
戦後80年に寄せて。
(纪念二战结束80周年)
(はじめに)
(开篇)
先の大戦の終結から、80年がたちました。
(自先之大战结束以来,已经过去80年。)
この80年間、わが国は一貫して、平和国家として歩み、世界の平和と繁栄に力を尽くしてまいりました。今日のわが国の平和と繁栄は、戦没者をはじめとする皆さまの尊い命と苦難の歴史の上に築かれたものです。
(在这80年间,我国始终以和平国家的身份前行,致力于世界的和平与繁荣。今日我国的和平与繁荣,建立在包括阵亡者在内的各位所付出的宝贵生命与苦难历史之上。)
私は、3月の硫黄島訪問、4月のフィリピン・カリラヤの比島戦没者の碑訪問、6月の沖縄全戦没者追悼式出席およびひめゆり平和祈念資料館訪問、8月の広島、長崎における原爆死没者・犠牲者慰霊式出席、終戦記念日の全国戦没者追悼式出席を通じて、先の大戦の反省と教訓を、改めて深く胸に刻むことを誓いました。
(我在3月访问硫黄岛、4月赴菲律宾卡利拉亚参访比岛战殁者纪念碑、6月出席冲绳全战殁者追悼仪式并参观姬百合和平祈念资料馆、8月出席广岛与长崎的原爆死难者・牺牲者慰灵仪式,以及在终战纪念日出席全国战殁者追悼式的过程中,再次立誓将先之大战的反省与教训深深铭刻于心。)
これまで戦後50年、60年、70年の節目に内閣総理大臣談話が発出されており、歴史認識に関する歴代内閣の立場については、私もこれを引き継いでいます。
(此前在战后50年、60年、70年的节点,内阁总理大臣均发表了谈话;关于历史认识,历代内阁的立场,我亦予以继承。)
過去3度の談話においては、なぜあの戦争を避けることができなかったのかという点にはあまり触れられておりません。戦後70年談話においても、日本は「外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった」という一節がありますが、それ以上の詳細は論じられておりません。
(然而,在过往三次谈话中,对于“为何无法避免那场战争”这一点并未多加触及。即便是在战后70年谈话中,也仅写道:“日本试图以动用武力来解决外交与经济的僵局。国内的政治体制并未能起到制止的作用。”但并未展开更多细节。)
国内の政治システムは、なぜ歯止めたりえなかったのか。
(国内的政治体制,为何未能成为制止之闸?)
第1次世界大戦を経て、世界が総力戦の時代に入っていた中にあって、開戦前に内閣が設置した「総力戦研究所」や陸軍省が設置したいわゆる「秋丸機関」等の予測によれば、敗戦は必然でした。多くの識者も戦争遂行の困難さを感じていました。
(经历了一战、世界迈入总体战时代之际,开战前由内阁设立的“总力战研究所”和由陆军省设立的所谓“秋丸机关”等的预测皆认为,战败乃必然。许多识者亦感到战争执行之艰难。)
政府および軍部の首脳陣もそれを認識しながら、どうして戦争を回避するという決断ができないまま、無謀な戦争に突き進み、国内外の多くの無辜(むこ)の命を犠牲とする結果となってしまったのか。米内光政元首相の「ジリ貧を避けようとしてドカ貧にならぬよう注意願いたい」との指摘もあった中、なぜ、大きな路線の見直しができなかったのか。
(即便政府与军部首脑对此有所认知,何以仍未能作出回避战争的决断,反而一头扎进鲁莽之战,最终致使国内外众多无辜生命牺牲?在有米内光政前首相“为避免小幅贫困(挤压)而反致大幅贫困,请务必谨慎”的指摘之下,为何仍未能进行大的路线修正?)
戦後80年の節目に、国民の皆さまと共に考えたいと思います。
(在战后80年的节点上,我愿与国民各位共同思考。)
(大日本帝国憲法の問題点)
(大日本帝国宪法的问题点)
まず、当時の制度上の問題が挙げられます。戦前の日本には、政治と軍事を適切に統合する仕組みがありませんでした。
(首先,可以列举当时制度上的问题。战前的日本,缺乏将政治与军事适当统合的机制。)
大日本帝国憲法の下では、軍隊を指揮する権限である統帥権は独立したものとされ、政治と軍事の関係において、常に政治すなわち文民が優位でなくてはならないという「文民統制」の原則が、制度上存在しなかったのです。
(在大日本帝国宪法下,统帅权(指挥军队之权)被视为独立;在政治与军事的关系上,“文官(文人)应优位”的文人统制原则在制度上并不存在。)
内閣総理大臣の権限も限られたものでした。帝国憲法下では、内閣総理大臣を含む各国務大臣は対等な関係とされ、内閣総理大臣は首班とされつつも、内閣を統率するための指揮命令権限は制度上与えられていませんでした。
(内阁总理大臣的权限亦十分有限。在帝国宪法下,包括首相在内的各国务大臣被视为彼此对等;虽称首相为内阁之“首班”,但制度上并未赋予其为统率内阁而下达指挥命令的权限。)
それでも、日露戦争の頃までは、元老が、外交、軍事、財政を統合する役割を果たしていました。武士として軍事に従事した経歴を持つ元老たちは、軍事をよく理解した上で、これをコントロールすることができました。丸山真男の言葉を借りれば、「元老・重臣など超憲法的存在の媒介」が、国家意思の一元化において重要な役割を果たしていました。
(即便如此,至少在日俄战争时期之前,元老在外交、军事、财政的统合方面发挥了作用。那些以武士身份从事过军事的元老,深谙军事,因而能够对其加以控制。借用丸山真男的话,“元老・重臣等超宪法性存在的媒介”,在国家意志一元化上发挥了重要作用。)
元老が次第に世を去り、そうした非公式の仕組みが衰えた後には、大正デモクラシーの下、政党が政治と軍事の統合を試みました。
(随着元老相继离世,这类非正式机制式微;其后在大正民主时期,政党尝试对政治与军事进行统合。)
第1次世界大戦によって世界に大きな変動が起こる中、日本は国際協調の主要な担い手の一つとなり、国際連盟では常任理事国となりました。1920年代の政府の政策は、幣原外交に表れたように、帝国主義的膨張は抑制されていました。
(在一战引发世界巨变之际,日本成为国际协作的主要承担者之一,并在国际联盟中担任常任理事国。1920年代政府政策,如幣原外交所体现的,对帝国主义式扩张予以抑制。)
1920年代には、世論は軍に対して厳しく、政党は大規模な軍縮を主張していました。軍人は肩身の狭い思いをし、これに対する反発が、昭和期の軍部の台頭の背景の一つであったとされています。
(1920年代,舆论对军方颇为严厉,政党主张大规模裁军。军人倍感局促,反弹情绪被认为是昭和时期军部崛起的背景之一。)
従来、統帥権は作戦指揮に関わる軍令に限られ、予算や体制整備に関わる軍政については、内閣の一員たる国務大臣の輔弼(ほひつ)事項として解釈運用されていました。文民統制の不在という制度上の問題を、元老、次に政党が、いわば運用によってカバーしていたものと考えます。
(传统上,统帅权仅限于与作战指挥相关的军令;至于与预算、体制整备相关的军政,则被解释为内阁一员之国务大臣的“辅弼”事项。也就是说,尽管制度上缺乏文人统制,元老、随后政党,实质上通过“运用”来予以弥补。)
政府の問題
(政府的问题)
しかし、次第に統帥権の意味が拡大解釈され、統帥権の独立が、軍の政策全般や予算に対する政府および議会の関与・統制を排除するための手段として、軍部によって利用されるようになっていきました。
(然而,统帅权的含义逐渐被扩大解释;“统帅权独立”被军部用作排除政府与议会就军方整体政策与预算进行干预与统制的手段。)
政党内閣の時代、政党の間で、政権獲得のためにスキャンダル暴露合戦が行われ、政党は国民の信頼を失っていきました。1930年には、野党・立憲政友会は立憲民政党内閣を揺さぶるため、海軍の一部と手を組み、ロンドン海軍軍縮条約の批准を巡って、統帥権干犯であると主張し、政府を激しく攻撃しました。政府は、ロンドン海軍軍縮条約をかろうじて批准するに至りました。
(政党内阁时代,各政党为夺取政权而互揭丑闻,致使政党失去国民信赖。1930年,野党立宪政友会与海军部分人士联手,围绕伦敦海军裁军条约的批准,主张其为“干犯统帅权”,对政府发动强烈攻击。政府勉力才使该条约得以批准。)
しかし、1935年、憲法学者で貴族院議員の美濃部達吉の天皇機関説について、立憲政友会が政府攻撃の材料としてこれを非難し、軍部も巻き込む政治問題に発展しました。ときの岡田啓介内閣は、学説上の問題は、「学者に委ねるよりほか仕方がない」として本問題から政治的に距離を置こうとしましたが、最終的には軍部の要求に屈して、従来通説的な立場とされていた天皇機関説を否定する国体明徴声明を2度にわたって発出し、美濃部の著作は発禁処分となりました。
(然而在1935年,针对宪法学者、贵族院议员美浓部达吉的“天皇机关说”,立宪政友会予以谴责,作为攻击政府的材料,并演变为牵涉军部的政治问题。时任冈田启介内阁试图以“学术上的问题,只能交给学者”为由,与之保持政治上的距离,但最终屈从于军部要求,两度发表否定此前通说立场的“国体明徴声明”,并对美浓部的著作下达禁售处分。)
このようにして、政府は軍部に対する統制を失っていきます。
(由此,政府逐渐丧失了对军部的统制。)
議会の問題
(议会的问题)
本来は軍に対する統制を果たすべき議会も、その機能を失っていきます。
(本应对军方实施统制的议会,也逐步失去其功能。)
その最たる例が、斎藤隆夫衆議院議員の除名問題でした。斎藤議員は1940年2月2日の衆議院本会議において、戦争の泥沼化を批判し、戦争の目的について政府を厳しく追及しました。いわゆる反軍演説です。陸軍は、演説は陸軍を侮辱するものだとこれに激しく反発し、斎藤議員の辞職を要求、これに多くの議員は同調し、賛成296票、反対7票の圧倒的多数で斎藤議員は除名されました。これは議会の中で議員としての役割を果たそうとした稀有(けう)な例でしたが、当時の議事録は今もその3分の2が削除されたままとなっています。
(最典型的例子是斋藤隆夫众议院议员的除名事件。1940年2月2日,在众院本会议上,斋藤议员抨击战争泥沼化,严厉追究政府的战争目标,即所谓“反军演说”。陆军对此强烈反弹,认为该演说侮辱陆军,要求其辞职;多数议员随之附和,最终以赞成296票、反对7票的压倒性多数,将斋藤议员除名。这是议会中试图履行议员职责的罕见案例,然而当时的会议记录至今仍有三分之二被删除。)
議会による軍への統制機能として極めて重要な予算審議においても、当時の議会は軍に対するチェック機能を果たしていたとは全く言い難い状況でした。1937年以降、臨時軍事費特別会計が設置され、1942年から45年にかけては、軍事費のほぼ全てが特別会計に計上されました。その特別会計の審議に当たって予算書に内訳は示されず、衆議院・貴族院とも基本的に秘密会で審議が行われ、審議時間も極めて短く、およそ審議という名に値するものではありませんでした。
(在议会作为军方监管机构承担预算审议这一极其重要的职能时,当时的议会根本无法称得上履行了对军队的监督职责。自1937年起设立临时军事费特别会计制度后,到1942至1945年间,几乎所有的军费都通过特别会计进行核算。这些特别会计的审议过程既不向议会列明详细的预算案明细,众议院与贵族院也基本都在秘密会议上进行审议,审议时间极短,根本不能算作真正的审议程序。)
戦況が悪化し、財政が逼迫する中にあっても、陸軍と海軍は組織の利益とメンツをかけ、予算獲得を巡り激しく争いました。
(即便战局恶化、财政吃紧,陆军与海军仍为维护组织利益和面子,在预算争取上展开了激烈角逐。)
加えて、大正後期から昭和初期にかけて、15年間に現役首相3人を含む多くの政治家が国粋主義者や青年将校らによって暗殺されていることを忘れてはなりません。暗殺されたのはいずれも国際協調を重視し、政治によって軍を統制しようとした政治家たちでした。
(此外,我们不应忘记,从大正后期到昭和初期的15年间,包括三位在职首相在内的众多政治家,都言遭到国粹主义者和青年军官的暗杀,这些被暗杀者无一例外,都是重视国际协调、试图通过政治手段准备掌控军队的政治家。)
五・一五事件や二・二六事件を含むこれらの事件が、その後、議会や政府関係者を含む文民が軍の政策や予算について自由に議論し行動する環境を大きく阻害したことは言うまでもありません。
(这些事件(包括五・一五事件和二・二六事件)对议会及政府相关人员等文民群体而言,其后续影响对军队政策与预算的自由讨论和行动环境造成了重大阻碍,这已是不言而喻的事实。)
(メディアの問題)
(媒体问题)
もう一つ、軽視してはならないのはメディアの問題です。
(还有一点必须要重视,这就是媒体层面的问题。)
1920年代、メディアは日本の対外膨張に批判的であり、ジャーナリスト時代の石橋湛山は、植民地を放棄すべきとの論陣を張りました。しかし、満州事変が起こった頃から、メディアの論調は、積極的な戦争支持に変わりました。戦争報道が「売れた」からであり、新聞各紙は大きく発行部数を伸ばしました。
(二十世纪二十年代,日本媒体对国家对外扩张政策提出批评。时任记者的石桥湛山曾公开主张应放弃殖民统治。然而自满洲事变爆发后,媒体舆论转向积极支持战争。这主要得益于战时新闻报道的“畅销效应”,各大报社纷纷大幅增加发行量。)
1929年の米国の大恐慌を契機として、欧米の経済は大きく傷つき、国内経済保護を理由に高関税政策をとったため、日本の輸出は大きな打撃を受けました。
(1929年美国大萧条爆发后,欧美经济遭受重创。由于各国以保护本国经济为由实施高关税政策,日本的出口产业因此遭受了重大打击。)
深刻な不況を背景の一つとして、ナショナリズムが高揚し、ドイツではナチスが、イタリアではファシスト党が台頭しました。主要国の中でソ連のみが発展しているように見え、思想界においても、自由主義、民主主義、資本主義の時代は終わった、米英の時代は終わったとする論調が広がり、全体主義や国家社会主義を受け入れる土壌が形成されていきました。
(在经济大萧条的背景下,民族主义浪潮席卷全球,德国纳粹党与意大利法西斯党相继崛起,成为当时的主要政治力量。尽管苏联在主要强国中显得最为发达,但思想界却掀起一股思潮:自由主义、民主主义和资本主义时代已成历史,美英主导的时代也宣告终结,这种思潮逐渐形成,为极权主义和纳粹主义的兴起提供了温床。)
こうした状況において、関東軍の一部が満州事変を起こし、わずか1年半ほどで日本本土の数倍の土地を占領しました。新聞はこれを大々的に報道し、多くの国民はこれに幻惑され、ナショナリズムはさらに高まりました。
(在此背景下,关东军部分部队发动了“九一八事变”,短短一年半时间,便占领了日本本土数倍面积的土地,报纸对此进行了大肆报道,许多国民被其蛊惑,民族主义情绪进一步高涨。)
日本外交について、吉野作造は満州事変における軍部の動きを批判し、清沢洌は松岡洋右による国際連盟からの脱退を厳しく批判するなど、一部鋭い批判もありましたが、その後、1937年秋ごろから、言論統制の強化により政策への批判は封じられ、戦争を積極的に支持する論調のみが国民に伝えられるようになりました。
(关于日本外交政策,吉野作造曾严厉批评军方在“九·一八事变”中的行动,清沢洌则强烈谴责松冈洋右退出国际联盟的举动,这些批评可谓犀利直指要害。然而自1937年秋起,随着言论管制的加强,针对政策的批判声音逐渐被压制,唯有积极支持战争的论调得以向国民传播。)
(情報収集・分析の問題)
(信息收集与分析问题)
当時、政府をはじめとするわが国が、国際情勢を正しく認識できていたかも問い直す必要があります。例えば、ドイツとの間でソ連を対象とする軍事同盟を交渉している中にあって、1939年8月、独ソ不可侵条約が締結され、時の平沼騏一郎内閣は「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」として総辞職します。国際情勢、軍事情勢について、十分な情報を収集できていたのか、得られた情報を正しく分析できていたのか、適切に共有できていたのかという問題がありました。
(我们有必要重新审视,当时以政府为首的日本,是否真正准确把握了国际形势。例如在与德国谈判建立针对苏联的军事同盟期间,1939年8月,德苏互不侵犯条约签订后,时任的平沼骐一郎内阁便以“欧洲局势已形成复杂多变的新态势”为由集体辞职。关于国际形势与军情动态,当时是否掌握了充分的情报?存在一个核心问题:我们是否正确分析了获取的信息,又是否恰当地进行了信息共享?)
(今日への教訓)
(今天的教训)
戦後の日本において、文民統制は、制度としては整備されています。日本国憲法上、内閣総理大臣その他の国務大臣は文民でなければならないと定められています。また、自衛隊は、自衛隊法上、内閣総理大臣の指揮の下に置かれています。
(在战后的日本,文官体制作为制度框架已相当完善。根据《日本国宪法》规定,内阁总理大臣及其他国务大臣必须由文官担任,此外,自卫队根据《自卫队法》设立,隶属于内阁总理大臣的指挥体系。)
内閣総理大臣が内閣の首長であること、内閣は国会に対して連帯して責任を負うことが日本国憲法に明記され、内閣の統一性が制度上確保されました。
(日本内阁总理大臣作为内阁首脑,内阁需与国会共同承担责任。宪法的这种明确规定,使得内阁的统一性在制度上得到了保障。)
さらに、国家安全保障会議が設置され、外交と安全保障の総合調整が強化されています。情報収集・分析に係る政府の体制も改善されています。これらは時代に応じて、さらなる進展が求められます。
(此外,日本还专门成立了国家安全保障会议,强化了外交与安全事务的统筹协调机制,政府在情报收集与分析方面的体制,也得到完善,这些举措都需要与时俱进,持续深化发展。)
政治と軍事を適切に統合する仕組みがなく、統帥権の独立の名の下に軍部が独走したという過去の苦い経験を踏まえて、制度的な手当ては行われました。他方、これらはあくまで制度であり、適切に運用することがなければ、その意味を成しません。
(鉴于历史上因缺乏有效整合政治与军事的机制,军部在统帅权独立的名义下肆意妄为的惨痛教训相关制度性补救措施如今得以实施,但需要强调的是,这些终究只是制度层面的调整,若不能妥善运用,终究难以发挥应有的作用。)
政治の側は自衛隊を使いこなす能力と見識を十分に有する必要があります。現在の文民統制の制度を正しく理解し、適切に運用していく不断の努力が必要です。無責任なポピュリズムに屈しない、大勢に流されない政治家としての矜持(きょうじ)と責任感を持たなければなりません。
(政治层面,必须具备充分运用自卫队的能力与战略眼光,需要持续努力正确理解并妥善运用现行文民统制制度。作为政治家,既要保持不向不负责任的民粹主义低头、不随大流的品格,更要扛起政治责任。)
自衛隊には、わが国を取り巻く国際軍事情勢や装備、部隊の運用について、専門家集団としての立場から政治に対し、積極的に説明し、意見を述べることが求められます。
(日本自卫队需要以专家团队的身份,就日本周边的国际军事形势、装备部署及部队运作等议题,积极向政治层面进行说明并表达观点。)
政治には、組織の縦割りを乗り越え、統合する責務があります。組織が割拠、対立し、日本の国益を見失うようなことがあってはなりません。陸軍と海軍とが互いの組織の論理を最優先として対立し、それぞれの内部においてすら、軍令と軍政とが連携を欠き、国家としての意思を一元化できないままに、国全体が戦争に導かれていった歴史を教訓としなければなりません。
(政治肩负着突破组织壁垒、实现整合的重任。我们绝不能让组织内部分裂对立,导致国家利益受损,必须以历史教训为鉴:当陆军与海军各自为政,将组织逻辑置于首位,甚至在内部都缺乏军令与军政的协同配合,国家意志无法统一时,整个国家最终一定会被拖入战争泥潭。)
政治は常に国民全体の利益と福祉を考え、長期的な視点に立った合理的判断を心がけねばなりません。責任の所在が明確ではなく、状況が行き詰まる場合には、成功の可能性が低く、高リスクであっても、勇ましい声、大胆な解決策が受け入れられがちです。海軍の永野修身軍令部総長は、開戦を手術に例え、「相当の心配はありますが、この大病を癒やすには、大決心をもって、国難排除に決意するほかありません」、「戦わざれば亡国と政府は判断されたが、戦うもまた亡国につながるやもしれぬ。しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国である」と述べ、東条英機陸軍大臣も、近衛文麿首相に対し、「人間、たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要だ」と迫ったとされています。このように、冷静で合理的な判断よりも精神的・情緒的な判断が重視されてしまうことにより、国の進むべき針路を誤った歴史を繰り返してはなりません。
(政治决策,必须始终以全体国民的利益福祉为考量,秉持长远眼光作出理性判断。当责任归属不明确、局势陷入僵局时,即便风险极高,人们也往往更倾向于接受那些看似勇敢的主张和大胆的解决方案。海军军令部总长永野修身将开战比作手术,坦言:“虽然存在重大顾虑,但要治愈这场大病,唯有以坚定决心排除国难。”他还表示:“政府认为不战则亡,但战也可能导致亡国。然而,如果不战而亡,那才是真正的灵魂上的亡国。”据说,陆军大臣东条英机也曾这样敦促首相近卫文麿:“有时啊,人总是需要闭上眼睛,从清水寺的舞台上直接跳下去。”正因如此,我们绝不能让历史重演——当精神与情绪的判断取代冷静理性的决策时,国家必得误入歧途。)
政府が誤った判断をせぬよう、歯止めの役割を果たすのが議会とメディアです。
(议会和媒体应当发挥监督作用,防止政府做出错误决策。)
国会には、憲法によって与えられた権能を行使することを通じて、政府の活動を適切にチェックする役割を果たすことが求められます。政治は一時的な世論に迎合し、人気取り政策に動いて国益を損なうような党利党略と己の保身に走っては決してなりません。
(国会应当通过行使宪法赋予的职权,切实履行监督政府行为的职责。政治活动绝不能为迎合一时舆论、搞选民拉票的作秀政策,更不能为了党派利益或个人私利而损害国家利益。)
使命感を持ったジャーナリズムを含む健全な言論空間が必要です。先の大戦でも、メディアが世論をあおり、国民を無謀な戦争に誘導する結果となりました。過度な商業主義に陥ってはならず、偏狭なナショナリズム、差別や排外主義を許してはなりません。
(我们需要构建包含具有使命感的新闻业在内的健康言论空间。在上一次大战期间,媒体不仅在煽动舆论,还将国民推向了鲁莽的战争深渊。我们既不能沉溺于过度商业化,更不能以容狭隘的民族主义,更不能容忍歧视与排外主义的滋生。)
安倍元首相が尊い命を落とされた事件を含め、暴力による政治の蹂躙(じゅうりん)、自由な言論を脅かす差別的言辞は決して容認できません。
(包括前首相安倍晋三遇害事件在内,我们绝不容许任何暴力践踏政治、威胁言论自由的歧视性言论。)
これら全ての基盤となるのは、歴史に学ぶ姿勢です。過去を直視する勇気と誠実さ、他者の主張にも謙虚に耳を傾ける寛容さを持った本来のリベラリズム、健全で強靱(きょうじん)な民主主義が何よりも大切です。
(这一切的根本,都源于以史为鉴的求知态度,唯有秉持正视历史的勇气与真诚,以包容之心虚心或听他人的主张,这才是真正的自由主义精神。健全而坚韧的民主制度,才是最重要的基石。)
ウィンストン・チャーチルが喝破したとおり、民主主義は決して完璧な政治形態ではありません。民主主義はコストと時間を必要とし、時に過ちを犯すものです。
(正如温斯顿·丘吉尔所言,(资本主义)民主制度从来都不是完美的政治形态。民主制度需要付出代价和时间,有时还会犯错。)
だからこそ、われわれは常に歴史の前に謙虚であるべきであり、教訓を深く胸に刻まなければなりません。
(正因如此,我们应当始终保持谦逊的态度面对历史,将这些教训深深铭刻在心中。)
自衛と抑止において実力組織を保持することは極めて重要です。私は抑止論を否定する立場には立ち得ません。現下の安全保障環境の下、それが責任ある安全保障政策を遂行する上での現実です。
(在自卫与威慑领域维持实力至关重要,我无法否认威慑理论的合理性。在当前安全形势下,这正是负责任地执行安全政策的现实要求。)
同時に、その国において比類ない力を有する実力組織が民主的統制を超えて暴走することがあれば、民主主義は一瞬にして崩壊し得る脆弱なものです。一方、文民たる政治家が判断を誤り、戦争に突き進んでいくことがないわけでもありません。文民統制、適切な政軍関係の必要性と重要性はいくら強調してもし過ぎることはありません。政府、議会、実力組織、メディア全てがこれを常に認識しなければならないのです。
(同时,若一个国家存在一个实力超群,却不受民主约束的组织,这个组织还最终失控,那么民主制度就可能瞬间崩塌,这种(运作日本民主的)脆弱性不言而喻。另一方面,作为文官出身的政治家,也并非不会因判断失误而贸然发动战争。文官主导的治理模式、政军关系的必要性与重要性,这些怎么强调都不为过。政府、议会、实力组织和媒体,都必项时刻牢记这一点。)
斎藤隆夫議員は反軍演説において、世界の歴史は戦争の歴史である、正義が勝つのではなく強者が弱者を征服するのが戦争であると論じ、これを無視して聖戦の美名に隠れて国家百年の大計を誤ることがあってはならないとして、リアリズムに基づく政策の重要性を主張し、衆議院から除名されました。
(议员斋藤隆夫在反军演讲中指出:世界历史本质上是战争史,真正的正义并非胜利者,而是强者征服弱者的战争。他强调绝不能因被“圣战”的崇高名号蒙蔽而误判国家百年大计,为此他主张基于现实主义的政策至关重要,最终因此被众议院除名。)
翌年の衆議院防空法委員会において、陸軍省は、空襲の際に市民が避難することは、戦争継続意思の破綻になると述べ、これを否定しました。
(在次年召开的众议院防空法委员会听证会上,旧日本陆军省却说,空袭期间疏散平民将削弱继续战争的意志。)
どちらも遠い過去の出来事ではありますが、議会の責務の放棄、精神主義の横行や人命・人権軽視の恐ろしさを伝えて余りあるものがあります。歴史に正面から向き合うことなくして、明るい未来は開けません。歴史に学ぶ重要性は、わが国が戦後最も厳しく複雑な安全保障環境に置かれている今こそ、再認識されなければなりません。
(虽然这两件事都发生在遥远的过去,但它们充分体现了议会失职、唯心主义盛行以及对人的生命和人权漠视的恐怖。不正视历史,就无法实现美好的未来。尤其在当前,日本正面临战后最严峻、最复杂的安全保障环境,必须再次强调汲取历史教训的重要性。)
戦争の記憶を持っている人々の数が年々少なくなり、記憶の風化が危ぶまれている今だからこそ、若い世代も含め、国民一人一人が先の大戦や平和のありようについて能動的に考え、将来に生かしていくことで、平和国家としての礎が一層強化されていくものと信じます。
(随着战争记忆的承载者逐年减少,记忆的消磨令人忧心。但我相信,尤其在当下,如果包括年轻一代在内的每一位国民,都积极思考那场战争以及和平的意义,并将这些知识应用于未来,我们作为和平国家的基础,就将更加牢固。)
私は、国民の皆さまと共に、先の大戦のさまざまな教訓を踏まえ、二度とあのような惨禍を繰り返すことのないよう、あたう限りの努力をしてまいります。
(我将与全体国民共同铭记二战的惨痛教训,竭尽所能避免历史重演。)